神社紹介

当社は伊達家統治時代の領地、須川南(現在の荒川)の51か村に於いて、各村社の惣社として地域の信仰を集めて来ました。大正元年に奉納された石造り旗杭、紅白の大幕 真鍮製神壷の奉納板にも地元大森だけではなく信夫の各村の崇敬者 そしてフランス領マカティア島在住者の記載が確認されます。又昭和13年に地域で初めて神輿を購入をしました。その時も惣社と崇敬する各社の信者から多くの寄附が集まり、この時もブラジ・サンパウロ フィリピン・ミンダナオ島など海外からの寄附も記録されています。時しも国家総動員法が施行された年にその経済下での並々ならぬ熱意が感じられます。郷社の指定も授かり一時は7人の神官を擁しましたが、時の変遷で、今は小田鹿島神社に宮司を兼務頂いています。神輿の渡御と巫女舞を保存継承する神社としてここ数年来、氏子各の協力のもと復興目覚ましいものが有ります。

住所福島県福島市大森字竹ノ内10
電話番号
メールアドレス

先代御神灯

御神灯(先代) (1772)明和9年正月、境内に大森村清右衛門によって「石燈寵一対」が奉納された。 明治11年(1878) 12月調の神社明細簿にも記録されているように、1基残り、片方は屋根の 笠のみはが残されていたが、平成23 年 (2011) 3月11日の東日本大震災で喪失した。

庚申(こうしん)

(1800)寛政12年8月8日 干支が庚申であったため、「庚申」供養塔が奉納された 境内に大森村講中によって供養塔奉納 庚申待ちといわれる庚申講は、人の体内には 三尸(さんし)という虫がいて、庚申の夜の睡眠中に身体から抜け出し、天に上って 天帝にその人の罪科を報告することになっていて、その罪の軽重によって生命が短縮 させられてしまうというので、 これを避けようとする信仰である。 庚申の夜は、眠らないで過ごすことでこの難を逃れようと、徹夜して御神酒や精進料 理を供えて祭事をする風習が生まれた。しかし、儀礼だけでなく、講の仲間で酒食を しながら行う男の行事であったため、楽しい社交の場でもあった。 庚申塔はこうした災いから逃れるため、供養塔を奉納したものである。申は干支で猿 に例えられることから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫った猿田彦像や、 庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛像を彫ったものもある。 、境内に大森村講中によって 「大黒天」塔が奉納された。

大黒天

この年は干支が「甲子(きのえね)であるため、 吉祥年とされ、甲子待ち、甲子祭りが行われた。 甲子祭りは大黒天祭り、甲子大黒祭りともいわれ、 「子(ねずみ)は大黒天の使者であるとしていた。 打出の小槌を持って俵の上に座った恵比寿大黒様を守護神とし、台所の神や福徳の神としても信仰され、七福神のーつに数えられている。大黒様は大国主命と神仏習合されているが、大国主命は出雲大社の主祭神である。

疱瘡神(ほうそうしん)

(1805)文化2年10月2日、境内に山田村長尾深右工門によって「庖癒神」塔が奉納された。 惣社正八幡は、信夫郡51ケ村の大鎮守ということで、大森村民だけではなく、近隣の村人 が参拝に来ていたことを示している。 寛政7年(1795)に米沢藩で庖癒(ほうそう)すなわち天然痘発生死者2千余名の大惨事にな ったし、文化年間初期の頃(1804~)の仙台藩の七ケ浜村大須(現在の宮城県宮城郡 七ケ浜町) にも庖癒が大流行して多<の病死者を出すなど、 東北の各地に蔓延していた。 庖癒は、一度罹ると免疫ができて罹らなくなることから、この厄を無事通過すれば安心で きるため、「お厄三病」と呼ばれていた。しかし、死亡率の高い伝染病であったので、ー 度流行すると医学上の的確な予防対策がなかったため、神仏頼みであった。このため、全 国各地の村々の神社に「庖癒神」が祀られた。庖癒神は犬や赤色を苦手とするという伝承 があるため、「庖癒神除け」として張子の犬人形を飾り、 赤―色で描いた鍾馗の絵をお 守りにするなどの風習を持つ地域も存在した。祀ってもてなすことで庖癒神に手加減をし てもらい、災厄を軽く抑えようとする風習(庖癒神送り)をする村も多かった。 幕府は享保20年(1735) 12月、江戸で庖癒が流行したことから、疫病対策として丸薬二血丸(にけ つがん)を旗本、御家人、直参に配布している。

金毘羅

(1805)文化2年10月10日、境内に大森村講中によって「金毘羅」塔が奉納された。 金毘羅は、金刀比羅宮に祀られているが、真言宗の金光院松尾寺の鎮守の守護神社で、 松尾寺の本尊が釈迦如来の「クンビーラ」であったことからきている。10月は日本の神様 が出雲大社に集合するために「神無月」と呼ばれているが、金毘羅は「留守神」と位置づ けられ、陰暦10月10日を祭礼としている。―方、金毘羅は薬師如来の十二神将のーつと され、宮毘羅(くびら)と呼ばれている。さらに、 十二神将は薬師如来の分身であると いい、十二支にちなんで方角が東北の守護神といわれている。

山神・大日塔

(1806)文化3年10月17日、境内に大森村講中によって「山神」塔が奉納された。 山の神とは、山津見神ともいわれるが、大山砥命(おおやまつみのかみ)のことで、その 娘の木花開耶媛(このはなさくやひめ)も山の神とされるため、「奥様」のことを「山の 神」と呼ぶこともあり、信夫郡にもその風習があった。春に山から里に下って田の神とな り、秋の収穫が済むとまた山に戻って山の神になるといわれているため、秋の収穫が終え た時期に祭礼を行って来年の五穀豊穣を祈願した。また、木花開耶媛が大山紙命の娘であ ることから、産の神として出産にあたっての安産祈願をする神とされた。 奉納された山神の側には、「三山の信仰」の湯殿山、熊野山の本地仏である大日如来の「 大日塔」が建てられ、霊験あらたかな「山の神」として信仰されていたことを示している。

足尾山

(1823)文政6年7月、境内に「足尾山」塔が奉納された。 信夫山にある月山、湯殿山、羽黒山の三山には月山権現、湯殿権現、羽黒権現が記られ、 羽黒山は境内に足尾権現が肥られていることから足尾山ともいわれた。足尾山が足の病 に霊験があるとされる謂れは、 平安時代の延喜20年(920)以前に醍醐天皇が常陸国の 葦穂山(茨城県石岡市と桜川市の境)にある神社のことを夢枕で知り、祈願したところ足 の病が完治したので、足尾神社の勅額を下賜したため、足尾山に改称され、修験道の山岳 信仰の対象になって全国に広まったことから始まる。江戸時代の交通機関には船、馬、 駕籠があったが、ほとんどは自分で歩行するしか移動する手段がなかったので、丈夫で達 者に暮らせるようにと健脚を祈願してわらじが奉納された。この風習が陰暦正月14日、現 在の2月10月~11日の暁にかけて行われる信夫三山暁参りの伝統行事となった。

馬頭尊

(1829)文政12年8月、大森村名主の渡部(辺)要助によって「馬頭尊」塔が奉納された。 馬の守護神として信仰された。馬は人と共に助郷(すけごう)等で物の運搬や田畑の農耕 作業をするための大切な使役でもあったので、道中や作業中での無事と安全、さらに人馬 の健康を祈願したものである。
助郷とは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した その後も馬役はなくなっても、馬による農耕や、運搬交通は盛んになり、馬や、その交通安全も祈願したのであろう

金華山

(1845)弘化2年10月、境内に施主清右衛門(渡辺家)によって「金華山」塔が奉納された 金華山は、現在の宮城県の牡鹿半島の突端の太平洋の海上に浮かぶ小島で、陸前金華山と いわれ、 山頂には海上の守護神で豊漁祈願の神である大海砥(おおうみつみ)神社、山 腹には金運・海運の神を肥った黄金山神社があるこの頃の金華山は、弁財天を祀る金華山 大金寺という修験道の真言宗の寺院であった。陸前金華山は、近江竹生島、相模江ノ島、 安芸厳島、駿河富士山と共に日本五弁財天として有名で、出羽三山、恐山と並ぷ奥州三大 霊山のーつでもあった。 明治の神仏判然令により金華山黄金山神社となった。東北地方ー 帯では金運、福運の神として信仰され、金華山講が流行していたので、参拝の記念として 奉納したと思われる。

御神灯

大鎮守御神灯

(1848)嘉永元年12月15日、惣社正八幡宮の大宮司丹治近江守を筆頭に、信夫郡51郷惣氏 子中として大代表世話人の大森村名主渡辺要助、清作、興七、七郎次、要蔵、治右工門、 忠三郎、伊兵衛の8名、世話人の佐重、利作、庄右衛門、利兵衛、鉄蔵、利右工門、勝蔵、 林蔵の8名、そして51ケ村氏子の寄進によって、境内に「大鎮守御神燈一対」が奉納され た。工費は金8両を要した。 石切作業を差配したのは、本場小野仁井町から招へいされた石工匠の二瓶勇右衛門で下鳥 渡村、山田村の人達によって山田村好国寺裏山の下鳥渡村石子地区から原石を切り出した 石燈寵を施工したのは、石工棟梁の平沢村為次郎と永井川村石工2人の3人であった。 寄進した信夫郡51ケ村は、天文21年(1552)に信夫郡51郷大鎮守としての惣社正八幡宮の 号を賜った翌22年(1553)、伊達晴宗が大森城に居城した時の所領で、須川(現在の荒川) の南側にある村々である。 すなわち、大森城のある大森が政治の中心であると同様、惣社正八幡は、信夫郡51ケ村(村名の詳細は年表の項で記載した)に ある鎮守を統括する惣社であったことを示している。

太神宮碑

(1867)慶応3年8月15日、境内に大森村連中によって「太神宮」塔が奉納された。 太神宮は伊勢神宮の宮号のーつで、正ハ幡宮で祀っている皇大神宮、すなわち天照大御神 (あまてらすおおみのかみ)のことである。裏面の下部には渡辺要蔵、要助など世話人多 数が刻銘されている。翌年には会津藩を中心とする奥羽列藩同盟と新政府軍との間で戊辰 戦争が始まるので、動乱期であったが、大森村でも伊勢講が行われたようである。

手水舎

(一九九〇)平成二年一〇月 改元を記念し祝奉して当期代表総代の発起で手水舎奉納 を検討して奉納した。奉納者  総代 渡辺重治、熊坂勝彦、野地正吉、丹治庄作、崇敬者 熊坂リツ、棟梁 野地栄二郎、 基礎 丹治道孝。 また、崇敬者 熊坂精一により手水鉢の奉納があった。先代の手水鉢も大切に保存されている。

黄金八幡神社由緒板
社務所 建築時は神楽殿としても使用

鳥居新設・由緒板の設置・社務所修繕

平成25年氏子安藤伝蔵氏の発起により維持管理委員会を立ち上げ安孫子顕男会長の下5年間の分納による修繕寄付を開始した。鳥居新設、奉納板設置と周辺整備をして当社の新しい顔となった。その後の継続寄付により社務所の修繕もした。残念なのは市道との間の大正元年奉納の旗杭や昭和15年設置の記念碑が有る参道入り口の土地が、国有地から平成15年頃、市有地に変更されて宗教法人八幡神社社有地ではありません。精査願いたい処です。

年表尊

信夫郡五一郷大鎮守惣社正八幡宮 後の睡眠山鎮座 式外 郷社八幡神社の年表

(一〇八五)鷹徳二年
八幡太郎義家の勧進によって竹の内に腰幕(腰巻)八幡宮が奉られたとの言い伝えあり。
右は明治25年(1895)に描かれた大森八幡神社(福島県神社庁蔵 福島県歴史資料館北区 )
(一五五二)天文二一年(一五五三)八月二六日
大宮司丹治近江守平行茂の時、信夫郡五一郷大鎮守惣社正八幡宮の号を賜る。併せて金文字の扁額(神額)が奉納される。尚現在の諏訪神社宮司の初代でそれから三十代にわたり大宮司を勤め上げた。
(一五八五~九一)天正年中
伊達政宗の代に国が乱れ、宮殿が残らず消失したとの記録がある。従って今の社殿は四百三十年よりは古くない。
(一七七二)明和九年正月
境内に大森村清右衛門によって「石燈寵一対」が奉納された。
(一八〇〇)寛政一二年八月八日
この歳の干支が庚申のため、境内に大森村講中により「庚申」供養塔が奉納された。
天帝に報告する三尸(さんし)の図がある(wikipediaより)
(一八〇四)文化元年
この歳の干支が甲子のため、境内に大森村講中により「大黒天」塔が奉納された。
(一八〇五)文化二年ー〇月二日
境内に山田村長尾澤右ェ門によって「疱瘡神」塔が奉納された。お祭りをして軽くすまして頂く様願ったものか。図では魔除の赤い布をまとった子供を親が背負って逃げている。男はおそれおののくばかり。
疱瘡神
(一八〇五)文化二年一〇月一〇日
境内に大森村講中によって「金毘羅」塔が奉納された。
(一八〇六)文化三年ー〇月一七日
境内に大森村講中によって「山神」「大日」塔が奉納された。山神は、農耕・林業・鉱業守り神であり、大日塔は大日如来、即ち熊野神社(農耕の神)の本地物である。
(一八二三)文政六年七月
境内に「足尾山」塔が奉納された。
(一八二九)文政一二年八月
境内に大森村名主の渡部(辺)要助によって「馬頭尊」塔が奉納された。
(一八四五)弘化二年一〇月
境内に施主勝蔵によって「金毘羅 妙見尊」塔が奉納された。
(一八四五)弘化二年一〇月
境内に施主清右衛門(渡辺家)によって「金華山」塔が奉納された。
(一八四八)嘉永元年一二月一五日
惣社正八幡の大宮司丹治近江守を筆頭に、信夫郡五一郷惣氏子中として大代表世話人の大森村名主渡辺要助、清作、與七、七郎次、要蔵、治右ェ門、忠三郎、伊兵衛の八名、世話人の佐重、利作、庄右衛門、利兵衛、鉄蔵、利右ェ門、勝蔵、林蔵の八名、そして五一ヶ村氏子の寄進によって、境内に「大鎮守御神燈一対」が奉納された。工費は金八両を要した。 寄進した村々は、大森村、小倉村上組、小倉村下組、下鳥渡村、下成田村、下名倉村、平澤村、前田村、小嶋田村、吉田村、八木田村、新田野目村、石名坂村、元永井川村、上永井川村、伏拝村、仁井田村、鳥谷野村、黒岩村、大蔵寺村、下村、大寺村、方木田村、中成田村、上成田村赤川村、郷野目村、小倉寺村、田澤村、上鳥渡村、清水町村、浅川新町村、上鳥渡新田村、山田村、内町村、浅川村上組、浅川村下組、関谷村、鼓岡村、天明根村、八丁目村、上水原村、下水原村、金澤村、土湯村、荒井村、上名倉村上組、上名倉村下組、佐原村、土船村、庄野村の五一ヶ村である。
(一八五〇)嘉永三年八月
村々からの寄進はこの年まで続いた。大森村役人は、世話人が七郎次、立会人が組頭の与七と次右衛門、百姓代が市之蒸と嘉右衛門、役元が利兵衛、名主が要助であった。
(一八五六)安政三年八月
境内鳥居の修復、幡立杭や幡竿の取替、本殿・拝殿屋根の小端葺板や壁の修復、金箔塗扁額の取替などの普請がなされた。工費は金一〇両一分二朱と銭三三文であった。
大森村役人は、立会人が伊兵衛と要助、百姓代が清三郎と市之蒸、組頭が清作と金五郎、名主が忠三郎であった。この鳥居は二千九年(平成二十二年)まで使われた。
(一八六七)慶応三年八月一五日
境内に大森村連中渡辺要蔵、要助など世話人多数によって「太神宮」塔が奉納された。
戊辰戦争の前年であるが、庶民は変わりなく信仰を続けていたのであろう。
(一八七八)明治十一年一二月
明治元年(ー八六八)の神仏分離令により、藩政時代は信夫郡五一郷大鎮守惣社であった正八幡宮は、大森村字酔眠山に鎮座する「式外 郷社八幡神社」に格付けされ、その寺社明細書を福島県令に提出する。郷社とは明治四年(一八七一)の戸籍法の公布と廃藩置県の実施によって、宗門人別改めの檀家による寺請制度であったものが、神社氏子を元にした中央集権的な神社制度に再編されたことにより、一定の区域の中で、最も由緒ある神社を郷社とし、戸長とともに神職が戸籍管理(戸籍管理は二年足らずで中止された。)をまかせられるという郷社定則によるものである。信夫郡で郷社の社格を持つ神社は、福島町の稲荷神社と当社八幡神社だけであった。明治二九年(一八九六)一二月に村社より昇格した鳥谷野村にある鹿島神社と金沢村にある黒沼神社とを加えても四社だけである。なお、その他は村社、無格社であり、格付けとして郷社の上は官社、県社である。
(一九一三)大正二年
我孫子平三郎氏によって大森城山西側の大森鉱山で、金、銀の採掘が始められ、祭礼の際、鉱山事務所から寄附を戴くようになる。黄金八幡神社の呼称に繋がるもとになる。しかし昭和18年金山整備令により廃山となる。
(一九二九)昭和四年一月
四間(約七.二m )✕二間(約三. 六m)、高さ一五尺(約四.五m)の社務所が新築追加工事として本殿、拝殿の屋根改修を行った。工事費は二六〇円を要した。建築にあたってはトタン板と釘・座金を拠出したのが大越金重、大工の労務を提供したのが大越福次郎、山口玉吉、安藤庄吉の三人、材木を拠出したのが熊坂清治との記録がある。当時は神楽殿としても使用されていて、祭りの際は社殿と渡り廊下でつなぎ、能舞台でいう橋掛の様に使い、渡ってきて神楽殿で芸能を披露していたと伝えられています。当時の娯楽の様子がうかがえます。
(一九三四)昭和九年七月
昭和三年(一九二八)下季から始めた寄附積立を期に大森黄金山郷社八幡神社と呼ぶようになる。
(ー九三八)昭和一三年
神輿を購入するための収蔵庫を新築し、同年に神輿を購入する。祭礼には御神輿を担いで繰り出されるようになる。二本松町竹田坂にある仏壇仏具・仏像彫刻・塗物の専門店の菅野孝之助氏(現在の二本松市竹田町一―八七の菅野仏具彫刻店)から当時の金額で三八七円で購入する。御神輿収蔵庫の建設は、氏子からの材木等の原材料及び労務の提供を受けて竣功した。祭礼費等を含めて六三円を要した。
(一九四一)昭和一六年七月
神社維持管理の安定化を図るため、福島市小田字安坂山一―二三、一―二四、一―二九の山林三筆の計二町六反四畝二六、一八〇㎡を基本財産として買い入れる。
(一九五〇)昭和二五年三月
これまで官有地であった境内地約一.五八一㎡を大蔵省より譲与を受け、宗教法人八幡神社の所有となっなったた。但し鳥居東側の灌漑用水路で分断分筆された、旗杭神社名の碑が有る入り口の年は除かれいて、その官有地が平成16年頃に市有地になり、現在に至っている。この状態で福島市の市有地になって居る事に最近まで知らなかった。

(一九五六)昭和三一年五月
拝殿屋根改築工事を施工する。追加工事として本殿木柵、土台のコンクリート工事、本殿、拝殿、渡り廊下の大改修と屋根向拝梁組組替の改築がなされた。工事費は大幟二旗の新調費を含めて一五二千円を要した。この頃になると睡眠山鎮座、黄金八幡神社の呼称が定着
(一九七四)昭和四九年一月
境内地隣接の民有地を購入、計四.五九八㎡の敷地となる。
(二〇〇九)平成21年6月より
氏子 安藤伝蔵氏の発案により、維持管理委員会を組織して会長安孫子顕男会長の下、5年間修繕寄付計画を発足させ当面の最大課題の鳥居修復と由緒版と鳥居周辺整備を目的とした。
(二〇〇九)平成二二年五月
Ⅰ期工事として神社入口の鳥居が付け替えられた。改修前の鳥居の大きさが、明(開口部)八尺(約二.四m)✕高さ壱丈一尺(約三.三m)であったが、改修後は明(開口部)約二.八m✕高さ約四.〇mと約二〇%程度大きく建て替えられた。Ⅱ期工事として拝殿屋根の瓦修理、本殿上屋の屋根塗装、御神輿収蔵庫入口庇屋根葺き替え工事、由緒板・周辺整備がなされた。工事費は千四十一万円を要した。
(二〇〇九)平成二二年八月
ネクスコ東日本㈱ 前田建設工業㈱より道の補修奉納 これにより南からの通行の便宜が確保された。
(二〇十三)平成二十六年四月
神社当期総代の起案により寄付を更に五年間継続を氏子総会で決議。一期修繕寄付の残り工事と二期修繕寄付の一部を神社一般会計より借り受けて社務所改修、トイレ設備工事をして支払いをする。維持管理委員会は当初の目的を終えたが、継続して維持管理、神社護持の部会として継続し、神社運営に大いに貢献している。
(二〇十二)平成二五年八月
若連発足 この機会に名入り法被 腹掛け 股引き 帯二〇着新調
(二〇十五)平成二六年
共電社長 熊坂博殿より、法被、帯、股引セット一〇着 佐藤接骨院佐藤明広殿より祭り半纏一〇着奉納併せて個人所有の法被作成申し込みがあり併せて10セット更に新調
(二〇十五)平成二七年八月
新たに夏越祭の開催を決定、茅の輪とエレキバンド カラオケ開催
(二〇十五)平成二七年一〇月
守山清(守山英夫父)より大幡、アルミ幡柱一対小旗二〇本奉納
(二〇十六)平成二八年
当年元朝祭より若連に応援頂き、参拝者接待を担当する
(二〇十六)平成二八年
当年の夏越祭より人形の厄除けを加えて、定例化する。氏子健康安泰祈願を願う
(二〇十六)平成二八年11月
例大祭より巫女舞の氏子内伝承と御神楽演奏をはじめる。更に黒岩春日神社からの伝承を受けて三姫樂に加えて、雅の舞、扇の舞、剣の舞を加える。舞の練習を通年として、他所からの要請で出張披露を始める。
(二〇十八)平成三十年
黄金八幡神社の御守り作成頒布開始
(二〇十八)令和三年
勧学祭(学業の精進と安全祈願する)を三区の事業として神社でお祓いをして、小学校新入学児童に御守りと記念品贈呈始める